アンチ特亜ブログ!

蠢く! 中国 対日特務工作白書
史上最大の対日工作「天皇訪中」に秘められた中国の野望
ジャーナリスト 袁翔鳴
SAPIO 2007/6/13号から全文引用


 「天皇の政治利用」は実は国内に限った話ではない。4月に来日し、天皇陛下と会見した中国の温家宝首相は、北京五輪への訪中を突然招請した。日本政府の頭越しにこうした提案を行なった中国側の意図は明白だ。訪中が実現すれば、北京五輪の成功が誰の目にも明らかになるからだ。だが、中国による「天皇の政治利用」はこれが初めてではない。今から15年前、天安門事件による国際的な包囲網を突破する最大の切り札として使われたのだ。


◎西側連合の中で一番弱い日本に工作を仕掛ける

 1992年10月23目、北京はただならぬ熱気が漂っていた。 北京首都空港から市中心部までは多数の警官やパトカーが配備され、市中心部の主要道路の沿線にはほぽ5m置きに警官が立ち並び、厳重な警戒ラインを形成していた。 さらに歩道には北京市民が立錐の余地がないほど押し寄せ、日中両国の小旗を振るなど、「熱烈歓迎」ぷりを示していた。

 これは当時の銭其理?・中国外相の言葉を借りると、「日中関係2000年の歴史のなかでも例がない日本の天皇陛下訪中の瞬間である」という表現になる。 「北京秋天」という、一年中で最も気候がよい、真っ青に澄んだ秋晴れのなか、天皇・皇后両陛下は車の中から沿道の市民に手を振った。さらに江沢民・中国共産党総書記、楊尚昆・国家主席、李鵬首相ら当時の中国最高指導者と相次いで会談するなど、天皇訪中は、世界中に改めて日中両国の緊密さを鮮烈に印象付けることになったのである。 この模様を中国側指導者として天皇に随行し、天皇訪中の一部始終を見ていた銭其?には感極まるものがあった。

 当時の中国は89年6月の天安門事件によって、「民主化」を叫ぶ無辜の学生や市民を軍靴で踏みにじり、戦車でその希望を打ち砕いたことで、世界中から激しい非難が津波のように押し寄せ、国際的に完全に孤立していた。 海外からの投資は完全にストップし、前年までの急成長はウソのように、89、90年の経済成長率は前年比でそれぞれ4%台までに落ち込んだ。実質的なマイナス成長である。 その後、共産圏諸国を中心に外交関係が回復したものの、91年のソ連邦崩壊に至る過程での東欧革命もあり、共産党一党独裁体制を堅持する中国にとって極めて強い逆風が吹いていた。 特に、78年末から改革・開放路線を推進してきた中国にとって、欧米を中心とする西側の対中制裁綱の形成は、国家存亡の危機を意味していたのだ。 天安門事件に代表される人権抑圧に反発する西側諸国は、経済面だけでなく首脳らの訪中をも抑制するなどの制裁の幅を広げていた。

 当時の中国指導部にとって、緊急の最重要課題は、このような対中制裁網を突破するために、どこかに風穴を開けて、打開策を講じることだった。その外交工作を統括していたのが、外相の銭だった。 そして、その突破口として、銭が目をつけたのが、92年に国交正常化20周年を迎える日本だったのである。 「日本は中国に制裁を科した西側の連合戦線の中で弱い部分であり、おのずから中国が西側の制裁を打ち破る最も適切な突破口になった」。 

 銭は2003年秋、引退後に出版した回顧録『外交十記』で、天皇訪中当時の国際情勢を振り返り、日本を”ターゲット”に選んだ理由を語っている。 さらに、銭は天皇訪中について、次のような展望を抱いていた。

 「(天皇訪中が実現すれば)西側各国が中国との高いレベルの相互訪問を中止した状況を打破できるのみならず、(中略)日本の民衆に日中善隣友好政策をもっと支持させるようになる」。

 「この時期の天皇訪中は西側の対中制裁を打破する上で積極的な効果があり、その意義は明らかに中日両国関係の範囲を超えていた。(中略)この結果、欧州共同体(EC=当時、現在の欧州連合《EU》の前身)が動揺を始めた」。

 銭は天皇訪中を政治的に利用した対日工作の結果、自らの構想を実現し、結果的に狙い通りの効果を発揮した点を自画自賛している。 その裏には、周到な対日工作があったことは間違いない。 「これまでで中国による最大の対日工作は天皇の訪中にいたる外交工作だった。そして、天皇訪中の実現には細心の工作が求められた」。 銭は引退後、自らの外交生活を振り返り、ごく親しい側近にこう漏らしていたという。


◎渡辺外相に相次ぎ天皇訪中を迫った中国最高首脳


 中国にとって、天皇訪中は昭和天皇時代からの課題だったが、92年1月、銭外相が日本の渡辺美智雄外相に天皇の訪中時期を指定して招請したことから具体化した。 渡辺は同年1月3日から6日まで北京に滞在した。「三が日」期間中の中国訪問は普通ではないが、それだけ渡辺の天皇訪中に懸ける熱意も尋常ではなかったといえよう。 渡辺は江沢民・中国共産党総書記、李鵬首相、銭外相ら中国首脳と相次いで会談した。

 「今年は日中国交正常化20周年です。私も昨年海部首相から招待を受けて、4月に日本を訪問することになっています。天皇陛下を20周年という意義ある年にお迎えをしたい」(江総書記)

 「天皇・皇后両陛下の訪中は、中国政府と人民の熱烈な歓迎を受けることを保証します」(李首相)

 「国交正常化20周年の本年秋、両陛下の中国ご訪問を歓迎します」(銭外相)

 江総書記らは口々に「国交正常化20周年」に合わせての天皇訪中を要請した。特に、銭外相は「本年秋」という表現で時期も特定している。 実は、当時の事情に詳しい外交関係者によると、銭外相は天皇訪中の時期について、「10月22日から27日」とまで提示したという。

 これに対して、渡辺外相は、「真剣に検討を致します」と述べて、天皇訪中について、事実上の約束を与えた。実際の訪中期間は10月23日から28日までなので、ほぽ中国側の要求が受け容れられたことになる。対日工作が初歩的な成果を上げた瞬間だった。

 渡辺は同年4月、国会の答弁で、中国側から要請があった事実を認めている。 「私が訪中いたしましたときに、かねてから数回にわたって総理あるいは高貴の方々に対し、またそれに相応する相手の人たちから、天皇陛下を20周年という意義ある年にお迎えをしたいという要請があったことは事実でありますから『検討します』『検討します』と言ってきたのですが、いよいよ20周年を迎えた正月ですので、これにつきましては『真剣に検討を致します』というお答えをしてきたことは事実でございます」。

 中国側は事前に、東京の中国大使館から 「渡辺が外交上の大きな成果を上げて、それを手土産にして次期総理の座を狙いたいという野心がある」 との報告を受けていた。 「渡辺外相に天皇訪中というニンジンをぶら下げれば、食いついてくることは間違いない。首脳外交で対日工作をやる」。 銭に近い関係者は、銭外相の党の重要会議での発言を覚えている。


◎駐日大使に代わり対日工作に乗り出した唐家? 



銭の対日工作の重要な駒として、日本で大きな役割を果たしたのが、当時の唐家?駐日公使だった。 唐は当時、在日中国大使館の公使を務めるとともに、大使館の党委員会書記も兼務していた。 大使館内の役職でいえばナンバー1の楊振亜大使に次ぐ公使だが、党内序列的には大使よりも上だ。中国では党内序列が重要なため、大使館の実質的なナンバー1は楊大使よりも唐公使となるという逆転現象が起きていた。 ありていに言えば、銭外相が日本の中国大使館で信頼していたのは、楊大使よりも、唐だったことは一目瞭然だ。唐は後に外相に昇進し、現在は中国政府で外交全般を統括する国務委員(副首相級)を務める。

 唐には中国外務省で一貫して対日工作に関わってきたという実績がある。唐は1938年1月、上海に近い江蘇省に生まれ、上海の名門大学、復旦大英語学科を卒業したが、すぐに北京大学の日本語学科に入り直すという異例の経歴を持つ。 これは、上部機関の指示によって、唐が対日エ作要員として養成されたことを示している。 1962年に北京大学卒業後、唐は対日工作を本格的に手がけるようになる。政府の報道部門の日本語専門家を経て、外務省に入省し、文化大革命(66-76年)期に中日友好協会理事として、中国を訪問する日本の代表団を接待し、通訳を務めるなど前線で働いた。文革中、日本文芸家協会の代表団の一員として訪中した作家の司馬遼太郎らは当時、唐を有能な通訳としてばかりでなく、政治的な気配りのできる優秀なテクノクラートとして高く評価している。

 唐は外務省入省後、日本大使館で2回勤務するなど、日本と本省を交互に行き来している。唐の明敏さは、外務官僚として上り坂だった銭其?の目にとまったようで、側近として仕え、2回目の中国大使館勤務時代には、外相の銭に直接電話ができるほどだった。

 唐は天皇訪中を成功させたあと、中国外務省に戻り、外務次官補に昇進し、93年には外務次官、97年には外務省党委書記兼党中央委員、98年には外相を離任し、副首相に専念する銭に代わって、外相の座を射止めたのである。

 唐のような大使経験がない外務官僚が外務次官、さらに外相にまで上り詰めたのは例がない。唐はそれほど銭の信頼が厚かったといえる。 なぜならば、それ以前から、銭は対日工作に乗り出していたが、唐ほど日本の各界に食い込んでいる有能な外交官はいなかったからだ。

 銭は当初、楊振亜大使を中心に据えて、天皇訪中に関する対日工作を開始した。91年4月、当時の中山太郎外相が訪中した。 「天皇訪中が実現すれば、中日関係の非常に重要な活動になり、中国人民に歓迎されます」。 銭は中山に迫ったが、中山は「自民党内にさまざまな意見がある」と述べて、逃げを打った。2か月後の6月、銭は自らが訪日し、再び中山に天皇の訪中を要請したが、それでも中山の態度は煮え切らなかった。中山が属していた派閥の清和会や自民党の内部でも天皇訪中に慎重な意見が少なくなかったからだ。

 銭は日本滞在中に大使館の幹部会議を招集した。 「中国はいま極めて重要な時期だ。来年の日中国交正常化20周年の重要な式典で、天皇の訪中が実現すれば、中国が現在置かれている苦境から脱することができる。江沢民総書記もそれを重々承知しており、諸君の活躍に期待している。諸君の一層の奮起を望む」。 銭はこう述べて、成果を得られない楊振亜大使を厳しく糾弾した。返す刀で、今後の天皇訪中プロジェクトの対日工作責任者として唐家?を指名したのである。 それは、いよいよ本格的な対日工作の始まりを告げるものだった。
      
(文中敬称略)
以上 SAPIO 2007/6/13号 から全文引用